泣かないで 目を閉じて 踊ろう

「深夜の街にて/朗読、ONE」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25436022:movie:H315:W560

 
 
もちろんぬゃーだって知ってましたよ、石風呂さん。
なんだかおもしろい、と思いつつ、 ほっぺたつねられて痛い、というような、ふしぎな肌触りの曲を作るひとですよね。

だけど実は、曲紹介のコメントに 前作→「深夜の街にて/朗読、ONE」 と書き付けてあったがために、
そっちを先に再生してしまった動画について、書いて見ないわけにはいかなくなったんだぬゃ。
事実はともかく、ぬゃんだかぬゃーの中では、そういうふうに書き出してみれば、なんとかつじつまもあいそうな気がするんだぬゃ。

ぬん、ひとことでいえば、好きなんだの、こういうの。
こういうのっていってもうまく説明なんてできないよね。それでもなんとかつらつらとつじつまをたどってみると、
これは、あれだな、佐野元春を聞いていたからだ。と思う。初めてきいたのはいつだっけ?
ぬぅ、ほんとに思い出せない。

ひとつ思い出したのは、佐野元春のアルバムを何枚か手に入れた後のこと、書店で佐野元春の書いた本をみつけたんだぬゃ。
たしかそのころ、角川文庫で、ミュージシャンのエッセイなんかまとめた本が、シリーズで刊行されていて、その中の一冊だったんだと思う。
ハートランドからの手紙』(ちなみに、ハートランドは当時の佐野元春のバンドの名前とおんなじ)
文庫本だったし、ぬゃっと思ったぬゃーは、なげられたかっぱえびせんをキャッチするがごとく華麗なフォームで手に入れたのだった。




で、家に帰って、さっそく読み始めてみることにしました。



エーテルのための序章

 第一部

   I

 あぁ、どうしてラブソングは乾いたカスタネットの音しか奏でないのか?肉体を枕にしてそれはまるでひび割れた骨がぶつかりあっているようだ。おれはおれたちの時代にしがみついているモラルのハンマーを憎む。その幻影にとまどいながら、ベルベットの雨、絶望の降りしきる夜、君は孔雀のように羽をひろげる。この世界で無残に壊れたものを再び壊しながら。
 おれはそこにいた。おれ自身の喜びといらだちのなかで。新聞とブラウン管が血を流している。一部が朽ちた山小屋でおれたちは言葉を費やすことさえめんどうくさがっている。彼女が時代を洗濯する音を聴き、おれのくるぶしはせわしなく動く。彼女のアーモンドのような瞳はまどろむ。おれはけっして逃げたりしない。足踏みを繰りかえすのは結局彼らのいう「ニホンジン」にひっつかまれるのがわかっているから。
<以下略>

角川文庫
佐野元春ハートランドからの手紙』より

こんなんでした。

基本的には、佐野元春が雑誌や、コンサートパンフレットに発表した文章がまとめられているはずなのですが、
第一章、1ページ目がまじでこのままでした。  ぬゃあは、どうしたらよかったとおもう?
ぐぬぬ、となんとかがんばって文字をたどろうとしたはずなんですが。その後の記憶は、ちょっとはっきりしていません。
だからぬゃーがその後どうしたかというのは、記憶の海の底に沈んだ、こがねの指輪のように、いまもってなぞのままなのです。
 
ちなみに、全部書き写すのが大変だったので、ライブ版CD! 『In motion 2003 - 増幅』 (ちょっと試聴もできる)の紹介ページからたどって、「あぁ、どうしてラブソングは」(この文庫の文章をもとに短くカットしてまとめたと思われる)の歌詞カードから一部コピペしているのはここだけのはなし。



夜中に、『ハートランドからの手紙』をぱらぱらとめくっていると、
本当に、なんだかとりとめもないことばかりだらだらと思うかぶ。
ウィル、ってだれだよとか。とりとめってなんだっけとか。



正直、これがなんなのかは、いまもってわからない。
なぜ、歌だけじゃいけないのだろう。
たぶん、歌にしかできないこと、歌だけではできないこと、
このスタイルを使わなければ、リアルにあらわせないこと。
そういったことに、佐野元春は何か確かな確信を持っているのではないだろうか。
ことばの意味はよくわからないんだけどさ。
つきつめれば、本人も、意味をわかってもらおうとして、やっていることではないのかもしれないよね。
石風呂さんの朗読にも、ちょっとそういうところはある。
自分の中にある何かを確かめている。確かめようとしている。
むしろその瞬間のリアルをとても素直に出そうとすると、こういう形になるのかもしれないですね。
それをきいてぬゃーはどうしたらいいと思う?
きっとなんかあるんだろぬゃぁ、わかんないけど。などと思って、
そこで、はて、自分の中はどうなのだろうと考えたりするのかもしれない。
自分の中にも、どこかそのような場所があるのか、確かめてみようとするのかもしれない。
でもどうやって?


――まあここはとりとめもなく、
ハートランドからの手紙』をもう一度ぱらぱらやってみよう。
佐野元春の好きな、アーティストの紹介なんかもあって、

 ボブ・ディラン
 ブルース・スプリングスティーン
 ジョン・レノン
 ニール・ヤング
 ルー・リード

なんかの紹介があったり。
うわあ、ぬゃーが洋楽きき始めた時って、いまさらながら、まったくこの順番そのままに、きいているんだよぬゃあ。とか。
これ読んでなかったら、ルー・リード(先日、訃報を聞いたばかりのような気がする)をきくことなんて、一生なかったんじゃないかとおもう。


Lou Reed

 ――自分がカッコいいと思っていたロックン・ロールとルー・リードが歌うロックン・ロールはまったくと言っていいほど異質なものだった。彼らは、彼らの音楽はなんて冷静なんだと思った。そしてヴェルヴェットのレコードはしばらくの間、僕の家の棚に眠っていたんだ。
 それが、不意に聞きたくなって聞いてみた。「もうすぐ彼女がやってくる」という一説を、何度も何度も繰り返す歌があって、サウンド自体はもの凄く粗雑なんだけれども、聞いているうちに凄く美しい旋律に聞こえてきた。自分がそのレコードの中に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現の中に積極的に入り込まなければ、楽しめない音楽だとそのとき知った。

<中略>

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの熱狂的なファンの人たちは「初期のヴェルヴェットの、あのノイズの中に真実があるんだ。何を言っているかわからないあの態度こそが本質なんだ」というかもしれない。でもルー・リードは今でもソロ活動を続けている、アルバムを作り続けている。生き延びてきた人なんだ。彼はヴェルヴェット時代に、このバンドで死んでしまうなんてことは絶対に思っていなかったはずだ。ミュージシャンとして、表現者としてニューヨークを活動の拠点としてサバイバルしていくぞ、という確実な健康的な意思を持っていたはずだ。そんなことをヴェルヴェットのラスト・アルバム『ローデッド』を聞いて初めて気付いたんだ。彼らの中で最もポップなアルバムといわれる『ローデッド』の中にこそ、ルー・リードの、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの本質があると僕は思っている。


角川文庫
佐野元春ハートランドからの手紙』より
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、ルー・リードがやってたバンド名です。

アルバム『ローデッド』より「スウィート・ジェーン」

そうだ、そうだった。佐野元春は、こんなふうに、
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドや、ルー・リードについて話していたんだ。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現の中に積極的に入り込まなければ」というのは、
別のいいかたで言えば、じぶんの中の確信を確かめようとする、
確かめるといった気持とのふしぎな一体化ということなのじゃないだろうか。
ふと気付けばリアルな現実を手にしたり、かすっていたりするかもしれいない。
まあ、なんにしても、ふつうの歌の聴き方じゃないよね。


ところでそろそろまとめ方も見失ってきたので、まったく話を変えてみます。

これはネットか雑誌で見かけた話なんだけど、佐野元春は、若いとき、
レコーディングスタジオには楽譜持ち込み禁止にしてたという噂を聞いたことがあります。
(ソース不明、真偽不明)
だけど、独立レーベル Daisy Myusic 立ち上げ直後のアルバム 「THE SUN」 のおまけ DVD
レコーディングドキュメント + PV
を見てみると、今は普通に楽譜使ってるようです。


THE SUN (初回生産限定盤)

THE SUN (初回生産限定盤)

ただ、本人が、「べつに口で伝えりゃいいじゃん」みたいなかんじで今もやってる節がみえるのでなんともいえないですぬゃぁ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3331378:movie:H315:W560



まあ、そんなこんなで、あんまりつじつまもあわないようだし、そろそろおしまい。
事の始まりは、これを見かけたところから。

サイコなわたし/歌、IA

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25565367:movie:H315:W560






それはそれとして、「ロックンロール伝統芸」を披露する佐野元春さん