『鳩の撃退法』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24961612:movie:H315:W560


■『鳩の撃退法』佐藤正午:著(小学館

鳩の撃退法 上

鳩の撃退法 上

鳩の撃退法 下

鳩の撃退法 下

ぬゃん……だと……
それは衝撃的なタイトルだったぬゃ。

鳩さんを、鳩さんをぉぉ。
上巻476頁、下巻477頁、あわせてだいたい1000ページも使ってだとぉ!
衝撃と共にうっかりレジへ運んでしまったんだぬゃ。
というのは前フリのネタであって事実とはすこしちがう。
ぬゃーはこの佐藤正午という作家を知ってたし、作品も読んだことがあるし、

永遠の1/2 (集英社文庫)

永遠の1/2 (集英社文庫)

「しかし一年つづいたということは」とぼくは考え考え反論した。「少なくとも五十回は寝た勘定になる。それは判るな?」
「わかるさ。すくなくとも五十回のファックだろうが」
母校で現代国語と古文と漢文を教えている男がそう答えた。
「じゃあ訊くけど、五十回もファックした女とそのうえ結婚したいと思うか?」
「おれは思わない」
「だれが思うんだ」
「そりゃすくなくとも五十回のファックを……ちょっと待て、するとおまえは一晩に一回しかやらなかったんだな?」
「いや二回のときも……」
「三回は」
「それはちょっと」
「無理か。でもそうすると五十回じゃきかないな。すくなくとも八十回くらいにはなる」
「無理なもんか、おれはただ……八十回ならなおさらだろ?」
「三十回までならどうだ?」
「三十回で手を打つ男が五十回だと二の足を踏むのか」
「二十回の差は大きいからな」
「ほんの三ケ月の違いじゃないか」
「百日。つき合ってみろ、長いぞ。永遠の半分だ」
「結婚してみろ、短くなるさ。永遠のひとしずくくらいには」
                              佐藤正午著『永遠の1/2』

という、
冒頭数ページ目で、婚約者から振られたおとこの、ユーモアあふれたセリフにぶち当たる、さわやか青春ラブストーリー(―)ですばる文学賞を受賞してデビューしたとかも、しってた。
だから、本当はこんなふうに言わないといけなかったのかも知れない。


 あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!

今、『鳩の撃退法』という本を上下巻あわせてだいたい1000頁くらいかけて読み終わったんだが、
鳩の撃退法について、まったく、これっぽっちもわからなかったんだ。

 ぬゃ… 何を言ってるのか わからねーと思うが


 うん、違うね、
 何もわからないよね、そもそも上下巻あわせてだいたい1000頁くらいある小説をどう一言で言えというのか。
 変な語尾つけている場合ではない。
ネットで反応をさらっと見てみると、大体は好評の様子。うっかり著者の、これは墓碑銘とか言ってるインタビューがひっかったりするのはご愛嬌。

ここ、で冒頭1章は試し読みできるはずなので、気に入ったら書店へゴー!

ぬゃーは年末年始結構な時間を使って読んじゃったよ。

 そもそもしつこいけど上下巻あわせてだいたい1000頁くらいある小説なのでじつにいろいろな要素が入り乱れていて、なかなかまとまらない。
そこで、試し読みでも読める、冒頭の一行だけにまずは絞ってみようとおもう。ぬゃ

 この物語は、実在の事件をベースにしているが、登場人物はすべて仮名である。僕自身を例外として。
                                            津田伸一

  『鳩の撃退法』冒頭

 誰だ、お前。作者は佐藤正午ではないのか。
そういえば何作か前の小説にも出てきて、さんざんやらかしたあげく、青森の金田一温泉へ引っ込んだんじゃなかったのか津田。
というような、もう、最初からうさんくさい始まり方について、別の言い方でいえば、
『鳩の撃退法』のかたりかた。についてちょっと考えたことをこれから書いてみる、ぬゃ。

 つまり、佐藤正午は、ここで、津田伸一という架空の作者をでっちあげて、津田が経験したことをかたる。という方法をとっている。
それどころか津田くんは、いやあ、今僕MacBookでこれ書いてるんだけどねだとか、さっき書いた、登場人物が「ピーター・パン」を読み上げた所、読み上げた、というのは事実なんだけど、内容まではいちいち覚えていないから、僕のほうでそれっぽいところをセレクトして当てはめておくのでよろしく。

「私たちが生きていくあいだに、私たちの上にきみょうなどきごとがおこり、しかも、しばらくは、そのおこったことさえ気がつかないことがあります。」
 
 『ピーターパンとウェンディ』石井桃子

みたいな感じでちょいちょい楽屋から出てくるのだ。

ピーター・パンとウェンディ (福音館文庫 古典童話)

ピーター・パンとウェンディ (福音館文庫 古典童話)

 作中にちょっとした小道具といった扱いで出てくる本、正確には『ピーターパンとウェンディ』の古本なのだけれど、
ちょっとした小道具というよりもひょっとしたら結構たいせつな意味をほのめかせるために津田は取り上げているのかもしれない。
佐藤正午によって。ややこしいな。

 
 そんなことより僕は真っ先に、ピーターパンなら石井桃子訳のこれがいいと房州老人が売ってくれた古本、いま読みかけの『ピーターパンとウェンディ』について、一言なりと感想を伝えておくべきなのかもしれなかった。「子供の本だと舐めてかかったら冒頭から目を瞠らされる」と目次と扉をめくって2ページ目「お母さんは、夢見る心をもち、とてもきれいな、人をからかうような唇をした、美しいひとでした。お母さんの夢見る心というのは、あのふしぎな東の国から渡ってくる、つぎつぎに重ねた、小さな入子の箱のようでした。いくらたくさんあけてみても、箱がまだもう一つ、中にあるのです。それから、お母さんのかわいい、人をからかうような唇には、いつもキスが一つ、うかんでいましたが」のあたりを面倒でも読んで聞かせ、老眼鏡を取り出した房州老人に、指をあてたまま本を渡して、

 お父さんは、お母さんをすっかりじぶんのものにしましたが、ただあの一ばん内がわの箱と、あのキスだけは、だめでした。箱のことは、それがあることさえ知りませんでしたし……

と数行あとにつづく皮肉な文章を自分の目で読ませて、それから、この本は「あなた」と読者に呼びかけて語って聞かせる文体で書かれ、漢字もなるべく仮名にひらいて子供向きに訳されているようにみえるけれど、実のところはどうなのか、「あなた」として想定されている読者は一般の子供たちなのか、それとも特定のだれかなのか、お母さんの夢見る心の一ばん内がわの箱、という表現はいったい誰に届けられようとしているのか、これを読んだ誰かが、もし子供ならば、いつか大人になって、自分のものにしたと信じていた相手の心に、それともじぶんじしんの心に、一ばん内がわの箱があると気づかされる怖いときを体験するのだろうか?そんなことを、さして深い考えもなく喋り、すると房州老人は本から目をあげて、だてに長生きはしていないという証拠に、僕の思いもよらない、生半可ではない辛辣な意見を吐いてみせたかもしれなかった。 

『鳩の撃退法』P60-61

というような、起きなかったけど、起き得たかもしれないできごと。というエピソードをしばしば津田に佐藤正午は語らせるのだ。
これはどういうことなのか。佐藤正午の「一ばん内がわの箱」は何なのだ。


 ……ここですこし道を外れよう。ぬゃ。
 あえて架空の作者を仕立て上げて、そいつにいろいろかたらせる。というやりかたは、小説の書きかた、だけでなく、読みかたについても問題にしている、ということではないのだろうか。少なくとも佐藤正午の仕事にとっては。

 ちょうどよく『小説の読み書き』佐藤正午岩波新書 が手元にあったので、
ぱらぱらとめくってみることにする。岩波書店の雑誌『図書』に連載時「書く読書」として連載されていたものをまとめた本。
各回およそひとりずつ近代文学の作者を取り上げ、作品についてのエッセイが書かれている。

小説の読み書き (岩波新書)

小説の読み書き (岩波新書)

第1回は 川端康成の『雪国』

 川端康成の「雪国」を初めて読んだのは十代の終わりの頃で、そのときの感想は二つあり、一つは小説全体を通して、書かれていることが難しくて僕にはよくわからないな、というため息のようなもの、もう一つは、

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 という有名な書き出しについて、汽車がトンネルを出たら雪が積もっていたというだけのことを、作者はこんなふうに書いてみせるんだなという驚きだった。

というように始まり、恐らくは、連載を始めるにあたって、佐藤正午にとって「小説を読むこと」の核心が後半で明かされている。

 わざわざ隠喩を用いるくらいだから、川端康成の頭の中には、夜の底と書く以前にたとえば地面や、あたり一面や、見渡すかぎりや、野も畑もや、他にもいま僕には思いつけないフレーズが様々浮かんでいたはずだということである。その様々あった中から、川端康成は夜の底という表現を一つ選んで、そして原稿用紙に書いた。なぜか?
 なぜならそれが書くことの実態だからだ。 単に字を書く、紙に線や点を書き写すという意味ではなくて、文章を書く、日記を書く、詩を書く、小説を書くというときのそれがごくふつうの手続きだからである。
 雪国、と書くとき、作家はすでに他の様々な候補、たとえば新潟県や越後や湯沢温泉の中から「雪国」を選び取っている。夜の底、と書いたとき、すでに川端康成の頭の中では、地面と書くのはよくない、あたり一面と書くのもよくない、という取捨選択の作業が終わっている。地面と書くのはよくない、と頭の中で一瞬でも考えることは、考えてその表現を捨てることは、それはいったん地面と書いたものを別の表現に書き直すことと同じである。地面と書いては捨て、あたり一面と書いては捨て、最終的に夜の底と書く。それが書くことの実態だ。そう考えると「書く」ということはとどのつまり「書き直す」と同義語になる。とどのつまりと言うよりもむしろ、そもそも、第一義的に、二つは同じものになる。
 文章を書くと言うとき、人は書き直すという意味でその言葉を使っている。そのことが前提としてある。そしてその前提で書かれた文章は、ふつうに書き直すと言うときの意味でまた書き直される。つまり推敲される。だから書かれた小説とは、すでにじゅうぶんに書き直された小説である。
 そうやって書かれた小説を読む。十代の少年だった僕が夜の底を地面と解読し、快感まじりの驚きを覚えたようにして読む。四十代の僕が駒子の握る島村の指を長めに思い浮かべたようにして読む。読むことによってさらに小説は書き直される。読者の頭の中で、冒頭の一行は新たに書かれ、書かれていない指の長さが書き加えられる。先ほどの前提に立てばそういう話になる。読者は読みながら小説を書く。読者の数だけ小説は書かれる。小説を読むことは小説を書くことに近づき、ほぼ重なる。

『小説の読み書き』佐藤正午岩波新書より

 小説を読むということをこのようにとらえる作家によって、『鳩の撃退法』という小説は書かれているということだ。

 あるいは幸田文をとりあげた回。この回には前段があって、連載時約一年前の回で林芙美子の『放浪記』を取り上げたときに、
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、今は切ない私である」
「三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。」

というような表現に対して、こだわる。


「いま問題にしているスタイルは、人が自然に話すようには書かれていない。私はいま切ない、とは人は話すかもしれないが、いまは切ない私だ、とは話さない。少なくとも僕の感覚では話せない。林芙美子は話さずに歌っている。話すようにではなく、歌うように書いている。散文の中へ詩歌の文体をまぎれこませている。
 ただ、僕にとっての最終的な問題はこのあとに来る。ここまでの指摘はあくまで、僕の感覚では、という限定付きだからだ。林芙美子の場合はひとまずそうであるとして、では、いまの現役の書き手たちはどうなのか? (以下略)

『小説の読み書き』より

 
 散文の中へ詩歌の文体をまぎれこませることの何がいけないのかはよくわからないのだが、佐藤正午はここにこだわり、引きずる、かくて一年後、幸田文の『流れる』を取り上げた回においては、

「きんとんと云えば体裁がいいがいんぎんの煮豆」(原文はいんぎんに傍点あり)

という表現にこだわるのだが。


『放浪記』で目についた特徴と同じものがこの小説にもやはりふんだんに盛り込まれている。で、僕は前にはこう書いた。このスタイルは人が自然に話すように書かれた口語文ではない。話すよりむしろ歌うように書かれている。
(中略)
 この非難がましい態度を今回はまず改める。机の上の余計なものを薙ぎ払って床に落すようにして思い切り、全面的に撤収する。一度さらの状態に戻して、もう一回このスタイルについて考える。
(中略)
 ここからまた「きんとんと云えば体裁がいいがいんぎん(原文はいんぎんに傍点あり)の煮豆」の話にもどる。この表現は、キントンと偽キントン、両者の違いを明確に知っている人に許される言い方である。本物のキントンを売る店と、名ばかりのキントンをキントンとして売る店が峻別され線引きされている。じゃあ、その境界線はどんな基準で引いてあるのかという話になるし、誰がその線を引くことを決めたのかという話にもなる。どこまでがキントンと呼べて、どこからが慇懃の煮豆になるかどこの何様が決めるのか? 決めるのは幸田文であり、うちのばあちゃんである。あたりまえだが個人個人が決めなければならないのだ。キントンのレシピがあって、そこに書かれた材料と煮方で作れば自動的にキントンなるわけではない。なるかならないか、それは自分の目と鼻と舌で決められる。自分の感覚以外のものに信は置かれない。
 感覚以外のものというのは理屈である。
(中略)
だから幸田文が本物のキントンの見極めを、体得というのか会得というのかとにかく知っていたことも想像がつく。キントンの見極めなんて簡単だと言いたい人が中にはいるかもしれないが、僕にはわからない。幸田文にあり、うちのばあちゃんにもあったはずの人生の途中で身についた確信がないのでわからない。
 おそらく慇懃の煮豆という物の言い方と、例の文体の特徴とは根っこが同じものだ。
同じものだから僕は同じように心細くなって、孫の理屈で祖母の実感の奥行きを探ろうとしてそれができないでいる。
(中略)
 今回はきっぱりそう言い切って、この一年間じくじく悩んできた問題は打ち切りにしたいと思う。もうなやまないし考えないし気にもしない。したがって孤立もしない。今後も寿命のかぎり日本語で話し日本語で書く人間の一員としてやってゆけるだろう。幸田文を読んでふっきれた。いま、さっぱりとしてとても気持ちのいい僕である。

『小説の読み書き』岩波新書より


 ……え、最終的には完全敗北しているように見えるのですが、それはともかく、なんとなく、すがすがしく決着をつけているのではあった。
「例の文体の特徴」というのが、林芙美子の文体のことだろう。

 ただし、本のほうは必要に応じて、連載本文の後に追記、が付くスタイルをとっていて、
幸田文の回は、本文の後、付記がついて、その後にさらに追記がつくという変則スタイルになっている。付記の方は「いんぎん」を慇懃と読んでいることに対し、「隠元豆」のことだよと読者から指摘がありました。サーセン。本にしたときに追記します。というような内容。
 追記の方は、本になったから、追記の方も詳しく書きます。ええ、ええ、どうせ佐藤正午ざまあとか思って読んでるんでしょ的なニュアンスがぬゃー的読解によると、読み取れなくもない内容である。興味ある人は書店へゴー。


 ピーターパンに戻ってみれば、佐藤正午の一ばん内がわの箱には何が入っているのかということなのだ。
まったく表には書かれていないように見えるのだけれど。
 でんでん懲りてないんではないのか、この人。
 ぬゃーをのぞく多数の読者から佐藤正午ざまあとまで思われるような状況を経た後だとしても、(ぬゃーは違うよ、完全敗北している〜のあとあたりにちょっとそれっぽいこと書こうとしたけどふみとどまったもんね)結局一ばん内がわの箱の中身を変えることはなかったのではないだろうか。
 それは、幸田文にあり、うちのばあちゃんにもあったはずのものとはまた別の、佐藤正午の人生の途中で身についた確信ではないだろうか。
おそらく、それをことばにするならば、

小説家は歌わない。

とでもいったものだと思う。そこに歌われる詩があるのは知っている。実際に歌う人がいるのも知っている。しかし、あくまで「孫の理屈で祖母の実感の奥行きを探ろうと」するのが小説家ではないのか。歌うことを諦めることで、あるいは歌わないという代償を払うことで、小説家はかたる資格を手に入れるのではないのか。歌わないことを箱の底に秘めているのが小説家ではないのか。小説家はかたるものだ。
 かくて、歌わない小説家である津田は、あることないこと、あったかもしれないことをいっしょくたに織りまぜて堂々とかたることができるのである。
……と佐藤正午は思っているのかもしれない。ぬゃ

そんなことをここ年末年始、ぽつぽつと考えたりしていたんだぬゃ

なんだかんだでいまのところ、2015年読みきった本の中ではベストでした。


■付記
 『ピーターパンとウェンディ』
 は旧訳版でよければ、国会図書館のデジタルライブラリににあり、ぬゃーはそっちの方をぱらぱらめくって確認して見ました。
 それと、じつは幸田文の本も『鳩の撃退法』の中に小道具としてちょっと出ていて、それはそれでほっこりさせてくれま……。


今回、動画は、ニコニコで「ピーターパン」で検索して出てきたやつを貼ってます。てへ



http://www.nicovideo.jp/watch/sm22068452:movie:H315:W560